わたしは統合失調症ですが社長をしています。
さいわいビョウキになってから会社を作りましたから
わたしに振り回されるかわいそうな社員はいません。
今日は
「統合失調症の本人じゃないとたぶん言えないな」
と思うお話します。
それは
あなたが統合失調症の人に責められたら
そのときはたいがい
統合失調症の人には
自分で責任をとれる能力がありますよ。
家族・職場の同僚・上司。
どういう関係であれその統合失調症のひとに
振り回されて耐え続ける必要はないですよ
というお話です。
たとえば統合失調症の人との間では
こんなことがよく起こります。
あなたは統合失調症の人に
あなたには理解のできない理由で突然責められます。
その人はあなたの子どもかもしれない。
きょうだいかもしれないし
友人や知人や職場の同僚かもしれない。
ことのはじまりはこうです。
あなたはその統合失調症さんに
とてもひどいことを言われました。
ちょっと話はそれますが
統合失調症の人はもともと
繊細なことが多いためか
統合失調症の人の言葉は
確実にあなたのとても柔らかいところを
ついてきたりします。
あなたはとても傷ついてしまいました。
ここまでなら
人と人との関係の中では
それがどんなによい関係であっても
起こらない話ではないですね。
統合失調症ではない人が
むやみに悩んだり
対処に困ったり
苦しまなくてもいいときに
自分を責めて苦しんでしまうのはここからです。
統合失調症さんがあなたにひどいことを言ったのは
ほんのいっときの精神の不安定さが原因でした。
自分のしてしまったことに気づいた統合失調症さんは
今度は一転、こわくなってしまいます。
なにがこわいのかというと
せっかく自分のことを大切に考えてくれている
あなたのこころが
自分から離れていってしまうのがこわいのです。
統合失調症になると
あれやこれやの症状で
常に不安の尽きないことが多いですから
自分のことを理解して
支えてくれようとする人の存在というのは
赤ちゃんにとってのお乳をくれる人みたいに
命にかかわる感覚で大切です。
ですからそんなかけがえのない存在である
あなたを失ってしまうかもしれない
そんなことは想像するだけでも
おそろしくてしかたがありません。
統合失調症さんはあなたを失うまいと
必死になります。
ある意味
どんな手を使ってでも
あなたが離れていかないように力を尽くします。
その力の方向を
ちょっと間違ってしまうのですけれどね。
このままではまずい!
あなたに去られては大変だ!
大あわての統合失調症さんは
必死になるあまり
奥の手を使います。
禁じ手と言ってもいいでしょう。
それはこんな言葉や態度です。
「私が統合失調症だと知っているのにひどい!」
「こんなことをしてしまうのは病気のせいなのに
俺を責めるのか!」
うーん。
手前味噌ですけれど
画面の向前でうなずくあなたが見えるようです。
さて。
統合失調症という病気を経験したことのないあなたは
そう言われると弱ってしまいます。
「『一番大変な思いをしているのは
統合失調症の当事者です』って
どんな本にも書いてあるものな」
「病気を責めて人を憎まず。
ひどい仕打ちは本人のせいじゃないんだ」
なんて聖人のように考えてしまいがちなのではないでしょうか。
でもちょっと待ってください。
理論はとっくに破綻していますよ。
なるほど
病気の本人が辛い思いをしているとか
病気が人にひどいことを言わせたのだとか
それは事実の一部かもしれません。
けれども本人みずからそんな話を持ち出せるのなら
本人には
○自分が病気であるという自覚・認識(病識)があり
○「病気が悪いのであって自分は悪くない」と
責任転嫁をするくらいの認識力もある
ということになります。
つまりは
病気のために感情のたかぶりを抑えきれないだけでなく
そのこと自体を自覚する能力まで
病気にうばわれてしまってはいないということです。
分かっているんですよ、本人にも。
自分が悪いことをしたなって。
一般的な関係であれば
謝るのがへただったり苦手だったりする人でも
傷つけてしまった相手と
これからも関係を続けていきたいのなら
傷つけたことにごめんなさいと
言わなければ収まりがつきませんね。
これも余談ですけれど
どちらか一方がガマンをして
なんとか成り立っているような関係は
そうそう長くは続かないものです。
ところがどういうわけか
統合失調症の人は
病気を理由に
自分のしでかしたことに対して
謝るという至極当たり前のことが
免除されて当然とでもいうように
振る舞うことがとても多いのですね。
さきに説明したとおり
あなたを責めるだけの理論を組み立てられるなら
自分が悪いことをしたと自覚できる判断力も
いっけんもっともだと思われる言い分を
こしらえるだけの思考構成力もあるんですよ。
いくら病気でも。
もし病気のせいでそれらの能力を欠いているなら
そもそもそれを盾にとって
自己弁護なんてできないはずです。
自分に都合のいい理論を
まとめあげる能力はあるけれど
自分の言動に責任をとるだけの
能力はないなんて
りんごが地面から浮き上がって
ふたたび枝にくっつきました!
というくらい不自然なお話ですよ。
病気なのであって子どもじゃないんだから。
たとえ子どもだって
「私は弱い存在なのだから守られるべきだ!」
なんて言い出したらどうでしょう。
なんとなく
「あぁ、この子はひとりで生き抜いていけるな」
そんなふうには感じませんか。
子どもがこの社会の中で守られるべき存在なのは
自分を守るすべをまだ知らないからです。
自分を守る手段を知っていたり
それを行使できるのなら
大した保護は必要ありません。
だいたい自分に保護を主張してくるほかのにんげんは
なぜかあんまり守りたい気持ちにならないのが
人情というものです。
少なくともわたくしだったら思いますね。
「あなたはご自分でご自分を
しっかり擁護できるではないですか。
そのうえなにを
わたくしにできることがあるでしょう」
と。
今このお話を読んで「確かに」と思えても
相手が親しい人であれば
なかなか突き放すことは
躊躇されるのだろうと思います。
はじめに言ったとおり
ご自身で統合失調症を経験されていないですしね。
でも考えてみてくださいね。
それでは誰があなたの傷ついたこころを
かばってくれるのでしょうか。
あなたがあなたのために
「ここから先はあなたの感情の領域だから
あなたが自分でどうにかしてね」
と言えずに
いつも相手の気持ちをなだめることを優先していたら
あなたの傷ついたこころはろくに手当もされずに
どんどん疲れていってしまうのではないですか。
わたくしも障害年金を請求したなら
2級と決定されるくらい
統合失調症という病気から
それなりの制約を受けて生活しています。
このお話も
今ここに来るまで
ほぼ丸々三日三晩かかって書いています。
それが大げさでないことには
今が日曜日の朝ですけれど
木曜日から眠れていないです。
ひとつの文章をなんとか書くのに
とても時間がかかるのも
特にこれといった理由もないのに
2日や3日眠れないことも
わたくしにとっては日常です。
てもだからといって
統合失調症という病気と暮らしているというだけで
なんでも免除されようとは思いません。
それはわたくしは
この社会の中で
それなりの権利を
放棄しないで生きていたいと思うからです。
できるだけ自由に生きていたいのです。
自由とは自分の言動の結果を
それがいいことであっても悪いことでも
自分で受け止められるということです。
いいことばかりをたくさん受けとれて
悪いことは避けられることを自由とはいいません。
それは甘えと呼ばれます。
もしもあなたがあなたの近くの
統合失調症さんを
うんと甘えさせてあげることに喜びを感じているのなら
それを止めるような意図はこのお話にはありません。
もしもあなたが統合失調症さんのそばで
いつも自分の感情を押し殺して過ごしているなら
そんな必要はないということを
どうか知っておいてください。
統合失調症はたしかに
悲しみを多くうむ病気かもしれません。
けれど病気のもたらす以上に
不条理だったり理不尽だったり
本当は”人”そのものが原因の部分で
多くの人がたくさん苦しんでいることがやるせなくて
このお話を書きました。